私には兄、姉、弟、妹がそれぞれ―人ずついる。当時、五人の子供がいる家族は珍しい
ことではなかったが、子供を育てる母はいつも大忙しだった。母の家事を助けるために、
子供たちがそれぞれ何がしかの仕事を分担する習慣が、いつのまにかついていた。

 毎日というわけではなかったと思うが、Aご飯炊きとふろを沸かすのが私の分担であっ
た。米を研ぐこともやったかどうかは覚えていないが、水加減は母がやってくれたので、
火をおこしてご飯が炊き上がるまで、ふろが沸くまでが、私の手伝い仕事であった。両方
ともマキが燃料だったので、どのように火をおこして適度な強さに燃やすかは、自然に体
験できた。

 ご飯炊きは火の調整に気を配らなければならなかったので、火を燃やすことそのものが
忙しかったが、ふろ焚きは火をつけさえすればあとは燃えるにまかせるだけで、時間がたっ
ぶりあった。その暇つぶしにいろいろないたずらができて、それが楽しかった,

 新聞紙にB食塩水を染み込ませてくべるとC黄色い炎がでて、教科書かなにかで読んだ
<炎色反応>が体験'できた。父が開業医をしていたので空になった注射波のアンプルが手
近にあった。この中にマッチの軸を詰め込んで火の中に置くとはじめは水蒸気が白い煙と
なって吹き出すが、まもなくオレンジ色の炎が勢いよく吹き出してくる。これも飽かずに
眺めて退屈をすることはなかった。冷えたアンプルをこわすと、中からマッチの軸が形も
そのままで真っ黒い炭と化している。それぞれが興味深いいたずらであった。多分これが
私にとっての「化学のことはじめ」であり、ファラデーの『口ウソクの科学』に代わる化
学の実験材料であった。

 小D中学校時代には昆虫採集のほかに、E植物にも興味があった。品種改良というもの
を自分でもやって美しい花を咲かせてみたかった。ラジオ作りなどで今でいうエレクト口
二クスにも興味があり、<F鉱石Gラジオ>を手始めに真空管を使ったラジオや後にトラン
ジスタを使ったこともあった。

 敗戦直後で物資の乏しい時代から次第に景気を取り戻し、戦争のために立ち遅れた
H科学技術を発展させるために、欧米から取り入れて得た成果が身近な存在になりつつあった
時代である。(   (10)   )も例外ではなかった。ごく身近なものが(  (10)  )で置き換わり
はじめたころである。中学校の卒業記念文集にはいくつかあった将来の希望のうち、大学
に入って(  (10)  )の研究がしたい、と書いた。文集の名前も、どのようにそのことをつ
づったかも間もなく忘れてしまったし、文集そのものもいつのころかなくなっていた。
                          ((11)ノーべル化学賞受賞者 白川英樹「化学と私」)


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