2.5 マンガと創造性

 ここでは作品としてのマンガ以前の「表現としてのマンガ」を取り上げる。

 「おもしろさ」の追求は創造性の追求でもある。マンガが子どもにとって「おもしろい」ものであることは、もはやいうまでもないことだろう。私もそうだったが、マンガがとことん好きになると、今度は自分でマンガをかいてみたくなる。特に主に絵とせりふと擬音(および効果線)で構成されるマンガは、手軽ですぐ描けるし、自由な発想力をそのまま生かして表現できる。

 なかでも絵を用いるということは大きい。感じたことをそのまま描くということにおいては、文字よりも絵のほうが圧倒的に有利で、幼児に紙とクレヨンを与えておけば飽きるまで「おえかき」しているものだ。それが本人にしか何を表しているのかわからないようでも、自分の力だけで何かが表現できたことに喜びがあり、大きな満足感が得られる。
 言葉だけではこうはいかない。もともと言葉とは他者とわかりあうためのコミュニケーション手段であるから、自分の思いを言葉に翻訳することは、大人でもうまくいかないことがあるし、表現内容によっては言葉で言い表すことが不可能な場合もある。

 表現者の想像力を生かした創作活動を考えるとき、特に論理的思考が未発達な子どもの場合は、「小説」や「詩」などに比べてマンガでの表現の方がはるかにとっつきやすいように思われる。いかに簡単にかけるかということになると、「小説」は基本的に物語を構成していなければならないから、いくつもの文を連ねて、さらに意味上の筋を通さねばならぬ苦労がある。その点では「詩」の方がまだ形式にとらわれないので書きやすいといえるが、「マンガ」はすべて言葉で表現しなければならないという制約からも解放されている。もちろん戯画としてのマンガではなくマンガ作品として仕上げるにはそれなりの苦労が必要だが、極端にいえばなにも考えずにさらさらと描いていてもマンガになるというのは大きなメリットだ。論理的思考を全く介さないでもイメージだけで描けるのである。

 コマがあって、絵があって、時には吹き出しがあれば、それだけで「マンガ」たりえる。<例>のようなものでもれっきとしたマンガなのである。「おえかき」から「物語」の創作への橋渡しとして、実に有効的な表現分野であろう。

<例>省略

 「マンガは活字だけのメディアに比べてわかりやすすぎて想像力を使わないからいけない」という意見がある。しかし「わかりやすい」こと、よみやすく、またかきやすいというマンガのメディアとしての特徴は裏を返せば身近で親しみやすく、なおかつ没頭させ夢中にさせるだけの魅力をマンガがもっていることの現れである。今のマンガは必ずしもわかりやすいものばかりではないことはすでに述べたが、話の流れが理解しやすく絵柄も単純なマンガについて、主人公像の親しみやすさや実際に描いてみたときの描きやすさなどから、その特徴をみていくことを行った。

 マンガを描くときにはいきなりオリジナルを描くよりも、むしろ既成の人気キャラクターをまねるほうが簡単だし、ほかの人にみてもらう楽しみがある。児童マンガの最高傑作といわれる藤子・F・不二雄の『ドラえもん』などは、今までどれだけの子どもがまねして描いたかわからない。同じ「ドラえもん」でもその人なりの個性が表れていて面白いものだが、そういった他人の絵をみて感じたことを言い合うことで描いた人の個性が言葉となって浮き彫りにされるし、いろんな絵を描くことで映像の特徴を捉える能力が身につく 。まねしやすいマンガ絵というのは、特に児童マンガにおいては情操教育のきっかけとしても大きく機能する。15年ほど前のことだが、特に藤子不二雄原作のTVアニメにはエンディングでよく「えかきうた」が流れていた。それだけ子どもがマンガのキャラクターを描きたがったということだろう。分析では、幼年誌と少女誌でこういった傾向が多くみられた。具体例など交えながら、3章にて詳述することにする。


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