2.4 「ギャグ」について

 マンガをジャンル分けするうえでストーリーマンガともう一つ、ギャグマンガの存在がある。両者は混じりあっており、はっきり区別できるものではないが、とりあえず「ギャグ」に作品の本質を置くものはギャグマンガということになる。現在のギャグマンガは大きく2つの系統にわかれる。一つは「読者の大多数のレベルに常に止まり、飛躍もない代わりに、いつでも安心できる笑いを提供していくタイプ」。もう一つは「読者の感覚のフリンジを常に刺激して、果てしなく暴走を続けるタイプ」である 。この2者の分類はさして難しくない。しかし読者である子どもを中心に考えるならそこにとどまらず「ギャグ」が読者にもたらす効果について考えるべきだろう。

 「ギャグ」という言葉は「映画・演劇で、本すじの間にはさんで観客をわらわせる、場あたりのしぐさやせりふ」 からきている。つまり「ギャグ」を考えることは、マンガの枠を越えて、広く社会における「笑い」の意味を考えることにまでつながる。映画や演劇において常にそえ物であり続け、独立することのなかった「ギャグ」が 何故マンガの世界で「ギャグマンガ」としての確固たる一ジャンルを築きえたのかは非常に興味深い問題であるが、そこまで触れていく余裕はないため、ここでは「子ども」に身近な話題だけを取り上げる。

 笑いの基本的な効用としては「緊張をほぐし、気持ちに余裕をもたらす」ことであるが、もし子どもがすでに気持ちに余裕のある状態であるなら、「ギャグ」は自発的な遊び心を育てる点に貢献している面が大きいかもしれない。しゃれやことば遊び、流行語を創造し、共感する子どもたちの遊び心は、素直な感性の表れであり、前向きな生き方のネットワークだ。愛想笑いやいじめでからかって笑う笑いとは異質の笑いである。これは実は『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ)に代表されるような、日常的なズレのおかしさがもたらす笑いであり、先の分類では前者に相当する。調査結果から現代では「少女マンガ」に多くみられる。

 ところが最近急速に後者のシュールで意味不明なギャグマンガが増えている。先ほど私が「もし」と断わらざるを得なかった理由がここに関係してくる。わかる人だけにわかればいいギャグ・マンガ。青年向けマンガであるが吉田戦車の『伝染(うつ)るんです』 という作品はそういったギャグ・マンガのなかでも新境地を開いた代表例である。その不思議な魅力を『マンガのヒーロー雑学Book』はこう説明する。

   「わけのわからない面白さ」「フツーの四コマ漫画のあるオチがなく、意味づけの
  ないファジーなところ」「読者が好きなように解釈できる」……つまり、よくわから
  ないのがいいらしい。
  面白いと感じるか、感じないか。『伝染るんです』は”感性のリトマス紙”と呼ば
  れることもある。要するに、理解しようとしちゃいけないってことかもしれない。

 『伝染るんです』から始まった新しい感覚的なギャグマンガは多くの他のマンガ家に影響を与え、作家の個性というより人間性に料理されてヴァリエーションも豊富になった。分析ではギャグマンガの分類とそこで取り上げられる題材をみることにより、現代っ子の好む「笑い」像に接近することにしたいが、ここで「意味不明」なマンガの教育的効果という点からの解釈について、前もってふれておくことにする。

 具体的図版を示さねば「意味不明」なだけに説明しづらいので、本来は第3章の具体的分析に入れるべきであるが先取りして、「ジャンプ」掲載の『すごいよ!!マサルさん(以降『マサルさん』と省略)』から1コマ(とそれに付随する2コマ)を取り上げる。断わっておくと前の『伝染るんです』ともまた違ったタイプのギャグマンガである。

 その前までの展開で部のシンボルマークを作ろうとしており、「普通でいいんだよ」と言われて「そうか…普通でいいんなら…こういうのどうかな…?」と言ってマサルが出したのがこの絵である(図版資料『マサル』1巻-p153)。
 これまでの展開や、もちろん部の活動内容とはおよそ関係ない「ごはん」である。突然この絵だけが示されることで「読者の感覚のフリンジ」は刺激され、おもいきりはぐらかされてしまう、と同時に頭のなかに強烈な印象を残す。私はこれは日常言語体系から脱皮させ、柔らかな発想を培うのに機能しているとみる。

 他分野、たとえば言語による表現分野でも一見解釈不能な表現は場合によってよく用いられる。たとえば「現代詩」において。

 現代詩が多くの場合一見理解しにくい言葉の連続で語られるのは、そうすることによってしかぶつけられないような今までにない抽象的で、自己の内面で昇華されたものをひねりだすような「重い」テーマを扱うからこそであろう。小海永二はその著書『近代詩から現代詩へ』のなかで、「日常的論理の拒否そのもののなかに、詩の論理があ」り、「そこに日常的世界とは別の奇怪な自立的世界が存在し、その奇怪さが読者の感覚領域にしみわたる」ことが、現代詩の表現方法の目的であると述べている 。これは絵画における抽象画にも共通して言えることだと思う。

 『マサルさん』の例が完全にこれにあたるとは言えない。少なくともはっきりと「ごはん」という生活上非常に身近な意味を示しており、そこからくる日常生活レベルでのイメージが理解より先行するからである。ところがこれが「奇怪」な印象とともに「読者の感覚領域にしみわたる」ことは否定できない。頭の柔らかい子どもははっと驚いたあと2コマあとの「何でごはんなんだ----!!?」という常識的な反応により現実に帰って安心する。と同時に普通でない感覚を体験したことを思い出して笑うのである。常識的な観念に常に依拠し続ける人にとっては1コマ目ですでにこの「絵」に対する直接的判断を下してしまい、その後の2コマは全く無意味で面白くないものに映るだろう。素早くイメージを読み取ることが出来る「マンガ」読みの申し子たちは、このマンガにのせられて一端日常とずれた世界へ跳び込み、感覚を飛ばしてくることができる。こういった経験を何度も積むことで、無意識のうちに発想力を鍛えることになるはずだ。「ひらめきを生かして、自分なりの答えを考える『発想コンテスト』 」というものがここ数年開かれているのだが、その問題のなかに、「『あぷりこてっかん』という意味不明の造語をあげて、それは一体どんなものかを想像させ、絵や文章で表現させ」るものがあった。最初から意味をもたない造語の場合、発想の幅はより拡がることになるが、いずれにしろ読者の発想力が問われることは間違いない。『マサルさん』は「受験」に毒された今の若者にとって、頭を柔らかくしてくれる新感覚のギャグマンガである。


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