第2章 マンガと子ども達のむすびつき


1. 「マンガ」のたどってきた歴史

 本論の研究価値は、ひとつにマンガという児童文化が、大多数の児童の生活環境に莫大な影響を与えていることに裏付けされる。したがって、まず最初にマンガのたどってきた歴史を大まかに概観することから始めたい。

 その前に「マンガ」とは何かという基本的な定義について言及しておく。昔は「漫画」と漢字でかきあらわしていたのだが、今はほとんどの場合「マンガ」というカナ表記が使われるようになった。これは今までの「漫画」の枠内におさまらないものが、「マンガ」という表現形式を借りてどんどん生み出されていったゆえである。「漫画」の字面から受ける印象が、現代の「マンガ」に合致しなくなってきたということでもある。

 手塚治虫 は中学生時代に創作したオリジナル版『ロスト・ワールド』の第1ページに、「これは漫画に非ず小説に非ず」と記したという。長谷川つとむは、「彼は、『漫』の字から連想される締まりのなさ、卑俗さを、自分の作品のなかに入れまいと志した」と解釈している 。そして実際に手塚治虫は映画の手法(カメラ・ワーク)なども取り入れながら、大人でも楽しめる上質のストーリー漫画の世界を開拓した。斎藤次郎はかれのマンガを評してこういっている。「ドラマチックな展開にいきなり読者の心をひきこむ手塚治虫のストーリーづくりは、俯瞰あり、アップありといった変化に富む構図と、激しい動きを的確に追うスピーディなコマ割りの新鮮さもあって、読者を魅了する」と 。そのなかには漫画史上おそらくはじめて、作者の持つ主義・主張、作品世界におけるテーマ性が物語の軸としての機能を有した。もはやそれは今までの「漫画」とよべるものではなかったということは、マンガにある程度関わりあいをもってきた人なら誰もが認めるところである。その証拠に戦後しばらくして現われたそのような新しいマンガをさすときは、ほとんどの出版物上で「マンガ」というカタカナ表記がとられているはずだ。近年石ノ森章太郎はそれをさらに発展して、「萬画」という呼び名を新たに提唱してさえいる。

 というのも、わが国のマンガ状況は近年になってますます多種多様の様相を帯びてきたからだ。つまり今まで「マンガ」で扱わなかったものがどんどん「マンガ」になってきているということである。したがって「マンガ」というものを一括りに定義してしまうことは大変危険なことであり、無理のあることでもある。始めは子ども向けの娯楽として、お遊び程度のものであったが、今では大人も読むようになった。一回でストーリーの完結する短いものであったのが、やがて大河ドラマのように長いストーリーをもつものが多く現われ、その中には手塚治虫の『火の鳥』のように高い文学性をもつと評されるものも出てきた。取り扱う内容は多岐にわたり、社会学的なモチーフも多数取り込まれた 。有名なものとしては被爆者中沢啓治が自己の体験をもとに描いた『はだしのゲン』 があるが、ほかにもマンガ史上で半ば実験作として描かれ、新しいマンガの可能性をひらいた作品を参考までに紹介しておこう。

 「さっぱりわからない政治の世界をわかりやすくマンガで紹介する」というアイデアを、自らが政治家に立候補してそこで起こったことをマンガに直す、という手法で実現させたのは本宮ひろ志だ。週刊「少年ジャンプ」に掲載された『やぶれかぶれ』 で、登場人物は全て実名、編集部と掲載をめぐってもめるなどの顛末から政治家との対談の内容まで、作中で熱く描いた。本多勝一原作によるアイヌ民族を扱った『ハルコロ』 という作品もある。少女ハルコロの成長物語を通して、アイヌ民族の生き方がさわやかに描かれた。それからある農村に持ち上がった飛行場建設問題を地元住民の視点から描く尾瀬あきらの『ぼくの村の話』(92年)などは現代の高度文明化社会の裏側に気付かせてくれる。ほかにも山本おさむは映画化もされた『遥かなる甲子園』 などで、障害者の物語をマンガで表現することに成功した。タブーを破って新境地を開いた例としては天皇家でさえ劇画化 、さらにはギャグマンガ になっている。ほかに現実からはなれた観念的なものとしては、夢をもとにマンガ化したら一大芸術論争を巻き起こしたというつげ義春の「ねじ式」(68年)が、数々の解釈を生んだ新しいマンガとして今でも特別視されている。

 内容面での多様化はもちろん、表現手段や目的にも幅が出てきた。輸入もの、輸出もの、アニメ化を前提にかかれるもの、また逆にアニメや小説を下敷きにかかれるもの、セリフのないもの、CGでかかれたもの、学習用マンガ、経済や学問的分野などの入門書としてのマンガ、ポルノ・コミック、ゲーム・コミック 、そして企業や施設・公共団体のPRマンガ 等々…。

 その一方で、漫画のルーツといわれる平安時代の『鳥獣戯画』のような、滑稽画、風刺画としての要素も、マンガの核としての地位は追われたものの、現在まで脈々と息づいている。辞書類で「漫画」を引いてみると、案外この意味しか載っていないものが多い。

 肥大するマンガ文化は、70年代に少年マンガ雑誌のターゲットの拡大を引き起こした。このことは宝島社『70年代マンガ大百科』に詳しい。

   『あしたのジョー』 が載っていた「週刊少年マガジン」は、大学生によって「右手に(朝日)ジャーナル、
  左手にマガジン」と必携書扱いされ、日航機よど号のハイジャック犯たちは「われわれはあしたのジョーである」
  と宣言して北朝鮮に去った。『アシュラ』 は人間が生きる意味を問い、『レッツラ・ゴン』 は限りなくシュールなギャグ
  をぶっ飛ばしていた。マンガが大人を対象にしたことで、その可能性が広がったことは事実だけれど、子供たちは
  置いてけぼりをくらってしまった。
  子供が読んでもなかなか難しくて、うまく消化できなかった──それが70年代のマンガだった。
  (『70年代マンガ大百科』INTRODUCTION p3より。注は引用者。)

このころから少年誌の対象幅が小学生から大人までと非常に拡大している。たとえば、98年現在学内の広島大学生協でも週刊「少年ジャンプ」を筆頭に大部数の少年誌が購入されている 。

 このこと(大人の読者の存在)が今の少年誌にどう影響しているかは、「ジャンプ」「マガジン」の分析結果にあらわれていた。あるマンガは大人と子供が共通して楽しめるけれど、あるマンガは比較的子供向けに、またあるマンガは比較的大人向けに描かれていることを推測していたが、「ジャンプ」はともかく「マガジン」には特に子ども向けのマンガを見つけることは出来なかった。「少年誌」とは名ばかりで青年誌化が進んでいることを示している。ただしそれは「子ども」に理解されないという意味ではなく、年齢に関係なく男性に普遍的に読まれるマンガの性格を浮き彫りにした。詳しくは3章の分析結果に関しての考察をご覧いただきたい。なお、少年マンガに対応する少女マンガの歴史については、その独立性から特に第3項で取り扱う。


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