第1章 現代の子どもにとって精神的「居場所」はあるか
        〜マンガを分析する際のスタンス〜


 本論文はあくまでも子どもに主眼を置くものである。その周りを取り巻くメディアのなかで、特に子ども社会に浸透しており、なおかつ子どもがある程度主体的に関わっていけるものを、「子ども文化」と位置付ける。そのなかでも特に「マンガ」を中心にとりあげるわけであるが、その理由について私の体験を交えながら少し詳しく述べておこう。

 私はもう3年ほどある不登校の子どもの家庭教師をしている。はじめは「学校にいっていなくても学校にいっている子どもと同じだけの学力をつけさせよう」と意気込んでいた私だったが、当時10歳になる彼はひらがなもろくに書けなかったことに愕然とした。彼は勉強を毛嫌いし、しかし決してほかのみんなと同じ生活をしたくないわけではなかった。そのジレンマはときには彼を暴力に駆り立て、またひきこもり無気力をよそおうことでしか自分を表現できないでいた。そんな彼に対して私は仲良くなれること、気持ちを受けとめてあげること、そしてなるべく多様な体験を与えることを心がけた。既成の「学習」システムは全く役に立たなかった。私はただ一緒にゲームをしたり、外で遊んだり、ときには新しいゲームを企画することで彼との関係を築きあげることを考えていただけである。

 彼はゲームをしたりマンガを読んだりすることが好きである。彼だけでなくほとんどの子どもたちがそうであろう。もちろん興味のあることなら、面倒なことでも進んでするし、活字ばかりの本も読む。大切なのはそれが与えられるもの、示唆されるものではなく、自分で主体的に選択し、生み出していく行動であることではないか。そのために子どもたち自身のなかにさまざまな経験を通して自分なりの価値観を築き、他人の個性の多様性を認められるようになってほしい。そういった願いを込めて、私は最近、子どもが興味をもてるようなマンガを家庭教師先にもっていくことを続けている。それは子どもが今まで知らなかったことを紹介する役目と、またその作品の物語世界のなかで精神を解き放つという目的によっている。精神を解き放つとは現実と違ったファンタジーの世界で夢のような出来事を疑似体験し、精神的高揚を得ることで現実に圧迫された自我に生きる力を芽生えさせることだ。

 学業成績により進路を限定され競争を強いられる場としての学校や塾、そして家族間の対話・地域のコミュニケーションの機会の減少など、子どもの孤立感をあおり、ストレスを感じさせる要因は多々あるが、その現れとして近年のいじめや不登校の増加率はすさまじい(資料2)。また97年には神戸で中学生による児童連続殺傷事件が起こり、子どもたちが精神的な面で非常に不安定になりやすい、現代社会の病理性をうきぼりにした。神戸の事件後なされた数多くの調査では、子どもの反応のなかに「自分のなかにもありえる」という少年に共感するような感想が多数みられた。最近の調査結果によると、最近年は校内暴力が急増し(資料3)、またその性質も、個人レベルで「潜在的な不満やストレスを、その日の気分で突発的に爆発させる」ものに変わってきている。こういった変化に対応して、たとえば98年にスクールカウンセラー活用調査研究事業対象校が1000校から1506校に増えることなどが挙げられるが 、国レベルの教育姿勢がどの程度まで現場に反映されるのかには不安がある。
 現代の教育問題のおおもと、少なくともきっかけとみられている「学歴主義」については、高度経済成長期の反動であるという見解が一般的である。ここに現代の「少子化」という社会現象も関わってくることにより、周りの期待を一身に受けた子どもが、精神的な逃げ場を失った、という図式が現れる。この図式は先進国諸国に共通のものであるが、日本の場合は特に厳しい状況のようだ 。それは日本が敗戦国であり、復興のためには犠牲を惜しまなかったこと、西洋型の教育思想がアメリカ先導で理解よりも先に浸透してしまったこと、日本が長い間国際的に閉鎖環境にあり、民族や人種間の対立がなかったかわりに国内の階級社会における他人との競争が激しかったことなどによる。教師の教本のひとつである『生徒指導論』のなかで 幹八郎はこう述べている。



(図省略)
(左)資料2. グラフ「公立中学校不登校者数」と付随記事 (『朝日』98.1/1)
(右)資料3. グラフ「いじめと校内暴力の発生件数の推移」(『朝日』97.12.23)

「高等教育」イコール「社会的地位と経済的安定」という図式が出来上がると、   人々が高等教育を求めるのは当然のことであり、教育は子女のために投資の対象とし  て位置づけられるようになった。しかも、一方で教育機会は著しく増大した。その結  果、高等教育はよりいっそうよいものを求められ、選択がさらに厳しくなった。このようにして、さらに高い投資の対象として教育を求めるための競争が激化することになったのである。

このような競争社会から落ちこぼれていった子どもたちはどうなるのか。
そしてそういった子どもたちに対して大人たちはどう対処していくべきなのか。

 たとえば主に不登校児のために地域でひらかれているフリースクール。ここでは同じような子どもが集まり、大人はなにも教えることなく一緒に遊んで楽しむ活動が重点的に行われている。重要なのはそこが子どもたちの居場所として確保されているということである。

 1997年11月6日にNHK教育テレビ『共に生きる明日』で埼玉県所沢市のフリースペース「バク」が紹介された。その主催者であるスクールソーシャルワーカーの山下英三郎は次のようなことを語っていた。「教える人はいらない、いろんな大人たちが存在することに意味がある」。「昔の空き地のような、人と出会う場所が、今は学校ぐらいしかないから」。

 ここでいわれている「子どもたちの居場所」は物理的な居場所と精神的な居場所を兼ねている。しかし物理的居場所が確保できなくても、子どもたちにとっての精神的な居場所、心の拠り所は少なくとも必ず確保されなければならない。とはいえフリースクールにしろ基本的に学校になじめない子どもの為にある救済施設であり、子どもたち全体の問題として考えたとき何かほかの代替案をうちたてる必要がある。現状としては街中に自然は少なく、子どもたちの遊び場も少ない。家庭をみれば核家族化や結婚の早期化により、自分なりの子どもに対する教育観が確立できずに安易に他に「教育」を依存する親たちが増え、さらに近年の共働き家庭の増加・離婚率の増加は家庭教育の不備に拍車をかける。外にもいろいろな要因があるが、結果的に子どもが主体的にすごす時間と空間は次第になくなっていった。ならば子どもが一人で、好きな時間に好きなものを選んで読むことができる読書、なかでも子どもに人気のマンガを子どもの精神的な居場所として捉えてみてはどうだろうか。マンガは、少なくとも読むことで笑ったり泣いたり感情をゆさぶられることがありえる、主体的な感情体験が可能なメディアだ。

 たとえば私の個人的なエピソードを例にとろう。私は好奇心旺盛な子どもで、また母子家庭であまり親に構ってもらえなかったこともあり、絵本やアニメ、マンガ、ゲーム、児童文学に強い興味をもち、特にマンガは小学生のころにすでに買い集めた単行本数が100冊を越えた。何か悪さをしたさいにマンガを全て捨てられたことがあったが、また一から買い集め、すぐにまた100冊を越えた。少ないこづかいをマンガばかりにつぎ込んでいたように思う。自分でストーリーを考えてオリジナルマンガを描いたりもした。しかし学校の中では溶け込めず、学校で一言もしゃべらない日が珍しくないような子どもだった。思えば自分の空想の世界で遊ぶことでかろうじて自分自身の生活領域を守っていた気がする。そんな自分に嫌気がさしていた私は引っ越しを機に少しずつ友達に自発的に話しかけるようになったが、それまでの私を支えていたのは周りの人たちよりむしろマンガなどの身近なメディアであった。それは非常に閉塞した空間であり、決してよい状態ではなかったのだが、そういった精神的な居場所さえもなかったらと考えるとぞっとする。マンガの中でいきいきと動くキャラクターたちへのあこがれが、後の自分の前向きな姿勢につながったのではないか。親や教師の説教のように直接的な訓示でなく、もっと寄り道をしながらしみこんでくる啓示が、マンガにはある。これは文学やゲームやなにげない人とのコミュニケーションの積み重ねのなかにも共通して存在するものだが、特に子ども向けマンガにおける役割は大きい。マンガには活字と絵の両方を用いることによって読者によりわかりやすく、より深く印象づけるという利点がある。またドラマチックな展開で読者を感動させる作品から、日常と非日常の境界をこわして笑いをさそうギャグマンガまで、多種多様な作品がうごめいている。多様な作品群からさまざまな価値観を感じ取り、読者自身の個性に還元していくプロセスこそ、型にはまった考え方から子どもを脱皮させ成長させていくものだろう。

 個人よりも集団を重んじる日本の伝統的社会性は、個性の重視が叫ばれる今でも容易に変革しえず、子どもも学校ではクラス集団を構成する一分子にすぎない。日本では中学、高校の3年間しか使用しない制服や体操服を皆一様に買わせて、同じであることを強要する例が未だに多い。制服の是非については今までも幾度となく議論が行われているが、問題は大多数の日本人が「違っていること」に違和感を覚える現状であろう。不登校児も「不良」たちも、そこになじめずドロップ・アウトしていったものたちであるが、ここではっきりいっておかなければならないのは、悪いのは彼らではなく、彼らをして精神的に孤立化させ社会の一般通念に適合するようにその存在自体を変えようとした大人側の「おしつけ」があったのである。子どもたちはいつの世でも「被害者」でしかありえない。特に日本が子どもと大人が対等の立場で意見を表明することが許されない社会であることは、「子どもの権利条約」が批准後ほとんど機能していないことからもわかる。

 そんななかでマンガほど「違ったものが共存している」子ども文化の例は珍しい。マンガの中には「不良」はもとより変わった先生や変わったひと達、そして変わった話題がたくさん登場する。そろそろ「なぜそれがウケるのか」ということを真剣に考えてみていいころだ。さらにはマンガが受容され、子どもの中で消費されたあと、自分をマンガで表現するという可能性に発展していき、今度はまた新しいマンガを作り出していくという循環的プロセスは、マンガが子ども寄りの「子ども文化」としてなしえた歴史上最大の「功」といっていい。そのなかには「つっぱり」や「落ちこぼれ」がいたし、その作品に共感する時代の子どもたちがいた。たとえば「つっぱりマンガ」の代表作である『BE-BOPハイスクール』の作者きうちかずひろは高校時代に実際に「不良」をしていて大学受験に失敗したという経歴をもっているが、そのことがこのマンガが青年誌連載にもかかわらず中学生ぐらいの少々社会に反抗的な読者にも共感をもって読まれ、単行本売り上げが一巻平均235万部に達する大ベストセラーになった要因となっている 。

 これから私がマンガを分析する際のスタンスは、以上述べてきたような観点によるものだ。多くの子どもたちに大量に読まれているマンガだからこそ、その影響力に着目し、周りの環境に不満を感じている子どもの気晴しの要素、心の支えとなっている要素、さらには子どもを精神的に成長させる要素をもっているのではないかと考えた。もちろんマンガのよい面だけでなく悪い面にもふれていく必要がある。だからこそ本論文の副題を「子ども向けマンガ文化の功罪」とした。ただし私のスタンスはこれまでの記述から明らかなように、どちらかといえばマンガに肯定的なものであり、それはそのスタンスの立脚点が、社会のなかの被害者としての子どもにあるからだ。それだけに「罪」の部分をはかる際には大人側の論理ではなく読者であるすべての子どもの現在、そして長期的にみて将来の、精神的成長の妨げ、あるいは偏った価値観による心理支配、または精神的苦痛の起因になる可能性を慎重にみていく。そしてその性格についての診断、「功」の部分とのバランスから、最終的には「子ども文化」としてのマンガの教育的意義を検証することができればと思う。

 本論文は大枠には「子どもの教育に関する論文」の範囲内に収まるものである。「教育的意義」という言葉を用いたことを契機に、補足になるが本稿における「教育」の定義を明確にしておいてから、第1章を終わることにする。

 現代の日本で単に「教育」といったとき、それは往々にして学校における、それも教科教育における知識の伝達というごく狭い範囲を意味するようだ。『広辞苑』第四版によると、「教育」とは「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。」とある。『日本国語大辞典』(小学館)では「知識を与え、個人の能力を伸ばすためのいとなみ。現代では、一定期間、計画的、組織的に行なう学校教育をさす場合が多い」となっている。前者は教育の領域をある程度カバーしているものの、基本的な考え方が私とは異なる。後者は道徳教育、社会教育、家庭教育などの「知識」だけではかれない部分、人間教育的な部分を除外してしまっている。私が教員免許取得にあたって学んだ「教育」の全体像は、もっと広範囲であるし、また知識だけを問題にするのではなく、そもそも既存の学問の教授を主体とするものではなかった。今度は三省堂『辞林21』を引いてみる。「他人に対して、意図的な働きかけを行なうことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用する全ての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される」。私の捉える「教育」の範囲としては、この定義の第2文がそのまま合致する。したがって児童教育においては児童の周りに存在するもの全てが「教育」としての機能をもっていることになる。マンガも子どもが読む以上重要な教育メディアの一つに数え上げられねばならない。

 次に教育方法についてであるが、先の辞典の定義にも表れていたが、日本語で「教育」といったとき、とりわけ「教」の部分には人間を外側から半ば強制的につくりかえるといった意味合いが含まれる。そのことは「教」という漢字が漢文では使役の用法の助動詞として使われることにも表れている。ところが英語の"education" の場合には、動詞形 "educate" の第1義が「引き出す」という意味を持つことから示されるように、教えられる側主体である部分が見受けられる 。スイスの教育学者ペスタロッチはこの部分に立脚し、教育とは子どもがもっている資質を「引き出す」ことにあると考えた 。大人や社会によって都合のよい知識の注入・教化ではなく、まず子どもありき、なのである。でなければ一体誰のための教育か。私の教育観はこちら側に立つものだ。


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