2. マンガの教育的可能性

 最後に現実の子どもたちとマンガ文化の特徴を結び付けて考えることにより、結びとしたい。
 私がマンガが一つの教育的意義をもつと考えるのは、それが「内側からの教育」につながるからである。子どもたち自身の内側からの教育は、期待されてはいるものの非常に実現が難しい。マンガならば「内界」を鍛えることに秀でており、うってつけであろう。特にその根拠として、佐藤忠男が小説とマンガを比較したときの論を紹介しよう。引用文中の「劇画」は「マンガ」ととって差し支えない。

   小説では、ある状況である人物がこんなことを信じ、こんな気持ちになった、と
   いったことが、しばしば説明的に書かれて断定されている。ところが劇画では、情景
  は書かれているが、そのときの主人公の気持ちは書かれていない。読者は、その情景
  を見ながら、その場における主人公の感情を想像しなければならないのである。

   つまり、劇画を読むときには情景を思い浮かべるという点では想像力を休ませてい
  るが、作中人物の気持ちを思いうかべるという点では、心理分析を作者がやってくれ
  る小説などより、よほど想像力を働かせて読みすすまなければならないことが少なく
  ない。

 では「内側からの教育」の必要性を説くために、「いじめ」に対する学校での次のような対応を「外側からの教育」の例として挙げてみる。

 学校で「いじめ」が発覚すると、学級会などで話し合いがもたれる。そして、みんな平等であること、差別は卑劣だということ、いじめられた人の身になって考えてみることなどが話し合われ、表面上は「十分反省した」ことになって解決する。ところがひとりひとりの心の問題は何ら解決されず、とりあえず「システム」の前では服従するふりをする一方、あるものは再び「いじめ」のチャンスをうかがい、あるものは再び「いじめ」の恐怖におびえることになる。子どもの内側に潜むストレスや差別心、他人を許容できない心、自己中心的な考え方を変えていかないことには、真の解決は得られない。そしてそれをなし得るのが子どもを内側から変えていく教育である。

 それは全くもって簡単なことではない。私はこれからマンガがそれに対して貢献していく部分があると述べていくわけであるが、現実をみればわかるようにマンガを読む子どもはたくさんいれども、「いじめ」がなくなっているわけではない。ただ、私が居場所論で説いたように、「いじめ」が生まれるような状況だからこそマンガがよく読まれているということはできよう。マンガのなかで提供されている要素には、現代教育が目指す理念的本質が宿されており、「いじめ」の元凶成分に対抗する可能性が隠されている。

 その一つは個性化のススメである。マンガのなかに描かれる四角四面でない、個性的で時には非常識なキャラクターは、読者が個性を「価値」として捉えることを無理なく押し進める。教育基本法 の前文にこうある。「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と。しかし学校教育はその理念からはなれて生徒を管理し画一化を押し進めることがしばしばであった。理想と現実が離れていったことは、第16期中央教育審議会で、あらためて「今後の我が国は個性が尊重される真に豊かな成熟社会の実現を目指すことが必要で、そのために教育改革が求められる」 と示されたことでも明らかである。個性を埋没させる教育に反発する層がマンガを支持し、体制破壊的なマンガが多く描かれると、子どもたちは大喜びでそれらを受け入れた。だからそれは同時に固定観念からの脱出のススメであった。

 決まりきった世界を脱皮して多様なファンタジー世界の創出に成功したマンガは、なおよいことにある表現上の利点をもっていた。それはある物語を表現する際に、文学と同じく視点が必ずしも主人公に定まらないということであった。というよりも主人公は決定的に具体的映像を伴うために、読者は主人公に注目しながら非常に第三者的な物語の楽しみ方をすることになる。しかもマンガは文学のように観念的にならず、読者に視界を授けるという点でより現実的に認知される。その結果、マンガのなかの物語の登場人物がそれぞれさまざまなバックグラウンドをもち、それぞれの行動には必ず彼ら(彼女ら)なりの立場上の言い分が存在するのだということを、疑似現実体験として感覚的に学習することも不可能ではない。その可能性は全てのマンガにあるといえるが、特に『こどものおもちゃ』などの何人かの重要な人物を軸に物語が展開するマンガで観察される。現状の「子ども向けマンガ」においてその数はさほどでもなく、一つの可能性にすぎないのだが、さまざまな立場があることを学ぶことで自己と他者を均等に第三者の目でみる(客観視する)ことができるようになり、さらに他者に感情移入することで自己を抑えて他者の主観(私はこれを「他人主観」と呼ぶ)に入っていけるようになる。これはいじめの解決のために言葉の上で絶えずいわれてきた「相手の身になって考える」ことの内面的実現である。

 相手の立場が具体的に思い測れるようになる必要性は、いじめについての加害者側の意見を聞いてみると痛感する。学習研究社が96年4月から1年間かけて行った、中学生に対するいじめの本音を探るアンケートでは、「性格が悪い子に悪口いったり、仲間はずれにしたり、きりがないほどやっている。いじめはおもしろい」とか「それで人の性格がよくなるなら、本人のためにもいいんじゃない」という意見が寄せられ、担当者は「いじめる側の罪悪感のなさや自己正当化の心理にショックを受けた」という。「主観」から「客観」、そして「他人主観」へと、新しいものの見方を学ぶことは、他人から教えられる「外側からの教育」によってはまず不可能であるだけに、マンガのもつ「内側からの教育」力に期待がかかる。

 いじめを行う側にとってはそのような教育効果があるとして、いじめをされる側にとっても、マンガはある種の精神的支援効果をもっている。マンガ文化の「功」のなかで述べてきた前向きな生き方のエッセンスは、逆境のなかにあってくじけないぎりぎりの精神的な強さを形成する。「明るく元気」な主人公像に自分を重ね合せ、自分もああなりたいと願う「あこがれ」の気持ちは、十分あこがれを実現させるための行動へつながりえる。それはヒーローの「ごっこ」遊びに興じる子どもたちや、スター選手にあこがれてスポーツに打ち込む人達の姿に表れている。もちろん自殺につながるほど深刻ないじめに対抗出来るほどの力を与えることは非常に難しい。私はなにも「前向きな生き方」がいじめを解決する手段になると言っているわけではない。いじめのケースはいろいろであり、なかにははっきり自分の意見を言う子どもがいじめられるケースもある。しかしマンガのなかの「前向きな生き方」に勇気づけられ、自信をつけることはあるはずだ。あの手塚治虫も「いじめられっ子」だったが、マンガのおかげで救われたという 。

 大切なのはマンガが子どもの「味方」として機能していることである。身近な存在であるがゆえに子どもたちの悩みを受け入れ、子どもたちの考えを肯定し、不満な現実とは違う世界を提供してくれる。今回はマンガ雑誌としての性格も踏まえてのマンガ分析を行ったが、もちろんマンガが子どもたちの「味方」として機能するということは、マンガ雑誌も「味方」としての機能をもっているということである。「少年ジャンプ」は95年にいじめを扱ったマンガ『元気やでっ』 を連載するとともに、読者がいじめに対してもっている本音の意見を募り、誌上レポートを行った。読者からの手紙は半年間で1800通にのぼり、誌上で紹介できなかったものを無駄にしないため特別に『いじめリポート』として出版するに至った。このようなマンガ雑誌と子どもとの結び付きは、雑誌そのものが子どもにとって「居場所」たりえていることの証であり、相互に情報交換が図られていることでともに成長していっていくという「子ども文化」の一つの理想を体現している。

 マンガが描く世界は広く大きい。その中にはもちろんよいところも悪いところも含まれるわけだが、基本的にマンガは常に子どもの味方として、殺伐としたところもある現代の子ども社会の中に点在する精神的な「居場所」の一つとして、貢献しているのだ。もちろんマンガが万能な教育手段になりえるとまではいえない。愛情のある家族の中でいろんな体験を積むことができた子どもにとっては、家族がすでに精神的な居場所たりえているだけに、ことさらマンガの教育的機能を強調する必要はないだろう。しかし家族や学校の中で居場所を見出だせない子どもたちにとっては、マンガを読むことで救われている面も多くある。大人はそれぞれの子どもの個性や状況に応じた教育手段を用いる必要がある。その中の一つとしてマンガも十分機能することをいいたい。友達と遊ぶことや外で遊ぶこと、自然と親しむことも重要だが、それが絶対的に位置付けられ、子ども自身の現在と照らし合わせることなしに大人側の教育的規範として存在するならば、それはむしろ逆効果を生む場合も十分考えられる。子どもは大人や周りの環境から「教育」されることからのがれられない。だからこそ本当にその子どもにあった「教育」とは何かを考える必要があり、その際には、マンガなどの子どもがすすんで興味を示すメディアの価値を子どもよりの立場で研究することもそれなりに意義深いことに違いない。


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