2. 各誌掲載マンガにおける全体的傾向

 これまでみてきた5誌における全ての分析対象マンガから、総じて次のようなことが観察される。

 読者像、すなわち「子ども像」については、「いじめ」や「家庭内不和」など、現実に身近に起こりえる(または起こっている)社会問題に関心はしめすものの、それらの重いテーマを粘り強く真面目な姿勢で考え続けることは苦手であることがうかがえる。これはシリアスタッチのストーリーマンガでも必ず息抜きとなるギャグの要素が入っていることから推測される。

 笑いを引き起こすまではいかなくとも、絵柄をくずして、緊張感をとぎれさせる手法は、ほとんど全てのストーリーマンガに見受けられる。『るろうに剣心』(「ジャンプ」)の主人公緋村剣心は殺人剣の使い手だが普段の表情は穏和であるし(左上図版:1巻-p126)、サッカーマンガ『シュート!』(「マガジン」)も緊迫した試合以外の日常では、デフォルメされたコミカルな表情が頻繁に描かれる(右下図版:1巻-p64)。『こどものおもちゃ』は作者自身「シリアスとギャグが文字どおり『紙一重』で入っているまんが」といっているほど 両者が混在している。結果的にお互いがお互いの印象を強め、楽しんで読めるようになっている。マンガはたしかに表現形式上絵と文字の混交である分「わかりやすい」が、ギャグとシリアスが混ざりあって「読みやすく」なっていることも、子どもの人気を集めている大きな要因だ。児童文学でもユーモアの要素を交えた那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズはよく読まれている 。

 マンガは話の筋書だけでなくその絵柄が与える印象に負うところも大きい。現実のデフォルメとしての性格をもつ各キャラクターは、しかし現実よりももっと表情が多彩である。特に主人公は喜怒哀楽がはっきりしていて大げさな行動に示す場合が多い。それが現実のレベルを越えて、目が点になったり描線が太くなったり絵柄が単純化されたりするので、見ているだけで楽しくなる視覚的効果がある。特にギャグとシリアスが混じっている作品ではその変化が激しく、それが魅力の一つとなっている。例として『カードキャプターさくら』の「さくら」を図版にて示す(次ページ図版「なかよし」-11-p70)。

 マンガの内容は全体的に明るく、描かれる世界は限りなく自由だ。それは主人公の性格や作品の雰囲気に表れている。マンガが、現実の世界で不自由を被っている読者にとって「精神的な居場所」であるためには、とにかく自由でなければならない。現実に存在する一切合財の抑圧からの解放が、マンガの中ではなされている。それは自由な世界があらかじめ用意されているということではない。現実と同じように制限が存在するものの、その中で常識にとらわれず自分の意思を貫く主人公が活躍したり、制限を一時的に無効化する、夢のような出来事が起こったりする。そしてそれを気分的にはまるで現実のように味わうことができるのだ。それはマンガのなかに描かれる状況が醸しだすリアリティーのゆえであり、活字メディアと違って日常と同じテンポ感を感じることができるゆえである。当然あるべきものが「ない」ことによって、読者の感覚で自然に補完されつむぎだされる無意識の創造だ。まさに「夢見心地」である。これが本質的な意味で「精神的な居場所」でなくて何であろうか。小野耕世は文庫版「11月のギムナジウム」(萩尾望都)の解説のなかでこう書いている。

  マンガのいいところは、画面と文字だけで、絵は動きもしないし、音もきこえない
  点だ。
  私は、ひとりで少年たちの動きを思いえがき、彼らの声をきく。
  その声の微妙なひびきぐあいの違いを、私は自分のなかで作りあげていて、私なり
  に知っているつもりだ。
  きっと、読者のひとりひとりは、登場人物たちの声のリズムを、それぞれ感じとっ
  ているにちがいない。
  じっさい、音のしないマンガの利点というのは、人物のしゃべっている声と、口に
  は出されていない心のなかの声とが、いっしょに読むものの心のなかに、ひびいてく
  るところにある。

 また、全てのマンガに共通してみられるのが「性の解放」である。性表現についてはマンガが攻撃されるひとつの原因になっているが、男女の体つきが違うことなどの事実に即した性表現は、今までむしろ、両性において人生において非常に重要な意味をもつにもかかわらずひたかくしにされてきた歴史を考えると革新的前進であるといえる。また、現代社会においては性が「援助交際」などにみられるように若者の間で軽んじられる傾向にあるからこそ、「子どもは知らなくていいこと」として隠蔽するのではなく、むしろ事実を歪めない形で性に関するありのままの情報を提供し、性について真面目に考えていける土台を作ることが肝要である。直接的に触れることはタブー視されてきたこの領域がマンガのなかでは平然と扱われることに注目したい。

 具体的には「コロコロコミック」では排泄物や「おっぱい」「ちんちん」などの男女の性的特徴が描かれる。いわゆる「下品」なマンガに入るわけだが、タブーを打ち破るところに面白さがあるらしく、『学級王ヤマザキ』(樫本学ヴ)がアニメ化されるなど人気が高い。描かれ方はギャグのネタとして明るくからっと描かれており、少年誌や青年誌に見るような「いやらしさ」は感じられない(図版上「コロコロ」-10-p381『学級王ヤマザキ』)。

 「ジャンプ」「マガジン」では男性の性的関心に応えるような女性の描き方がみられる一方で、男性の性欲を肯定し、「性に関わることは罪悪である」という古い考え方を一掃している。主人公も基本的に「スケベ」な設定が多く、特に思春期以降の読者にとっては同化しやすい。しかしだからといって女性の人格が軽視されているわけではなく、それぞれマンガの登場人物として物語進行上の重要な役割を任されており、弱い存在や男に尽くす存在として固定化されているわけではない。

ただし一部には「ぶさいく」な女性に対する蔑視思想など、安易に外見上の判断に頼る偏った考え方がみられる。女性よりも圧倒的な偏見が感じられるのが「ホモ」(男性同性愛者)や「ロリコン」の扱いで、たいてい興味本位に単純に「異常者」として描かれる(図版下「ジャンプ」31号-p296『幕張』)。

 少年マンガが「肉体」的な部分(男性的・女性的なからだの描写、ハダカや生理現象の描写、迫力ある戦闘)を重要視する傾向にあったのに対し、少女マンガは「精神」的な部分を繊細に描写する傾向がある。それぞれの性格の違いが、読者をさらに「男性的」「女性的」方向へと導く機能をもっていることは否めないが、マンガの取り上げる題材が多様化している現在では両者の垣根が少しずつ壊れて、同じものを平等に消費できるようになってきた。その一つとして少女マンガでも「性の解放」はすすんでいる。今まで特に女性が関心をもったり、口に出したりすることがタブー視されていた性に関する言葉が自然に使われ、小さいときから男性と平等に性を議論できる素地を作っている。児童向け少女雑誌では数が少なく、しかも言葉だけで連想を誘うような絵を伴わないのだが、たとえば「同棲」 「犯す」(図版資料『こどものおもちゃ』1巻-p45)など子どもにとって日常的でない言葉でも場面に応じて自然に使われる。現実に使われている言葉である以上、女であれ子どもであれそれらの意味や用法て知る機会が平等に与えられて当然だろう。このことは「女・子ども」として社会的に不完全なものとして劣位に置かれていた状況の改善につながる。

 さらに「ストレス解消」という面では、見開きやたちきりを多用して迫力やスピード感、解放感を表現しているし、随所に現れる「笑い」の存在も十分機能している。男性誌では「下ネタ」や一枚絵的な面白さによる唐突なギャグが多い。対して女性誌では他者や社会に対する攻撃的で一部意味不明なギャグよりも、「ウィットに富んだユーモア」という性格のものが多く比較的安心して読める。


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