1.4 月刊少女マンガ誌「りぼん」について

 1955年創刊 。最近のヒット作はさくらももこの『ちびまる子ちゃん』で1986年から96年まで連載が続いていた。96年の公称部数ランキングで主要マンガ雑誌のランキング中堂々の3位をマーク 。公称部数は228万部であった。読者対象は小・中学生女子。最大の特徴は毎回ついてくる付録であろう。対象となった3号では組み立て付録としてランチボックスやジュエリーボックスなどの「入れ物」系が毎回ついてくるほか、「ハロウィン・フレーム」といった一種の飾りがあった(全て紙製)。ほかは文具やビニールバッグ、別冊の料理ブックやポスターなど。それぞれ掲載マンガの各キャラクターがデザインされている。組み立て付録の組み立てはごく簡単で時間もかからない。付録の説明は「なかよし」が2ページにぎゅうぎゅう詰めなのに対し、「りぼん」は3ページと余裕がある。それにくわえて表紙での漢字の使用基準で、同じ「連載」という言葉でも「なかよし」が漢字なのに対し「りぼん」はひらがなであること、12月号の「オリジナルアニメビデオ応募者全員大サービス」での「きまりがよくわからない人は大人の人に読んでもらってね。」というコメントなどから、非常に低年齢層に対する配慮が感じられる。プレゼントの賞品もこれまでの3誌とは様変りして、衣類や靴などの身に付けるもの、おべんとうセットなど生活に直結したもの、そして占いグッズがおもちゃやゲームソフトに加わる。広告は分厚い月刊誌にもかかわらず少年週刊誌とほとんど変わらないくらい少ない(但しマンガの中に挿入される1/4面広告は多い)。その中には生理用ナプキンの広告が「ようこそ小さなレディたち」と銘打って生理に関する正しい知識を教えるなど、単なる広告に終わらず読者側に有益な情報を提供するものがあり、全体的に「少女向け」雑誌として非常に好意的にまとまっている。

 「りぼん」独特の特徴といえば、たとえば各ストーリーマンガのこれまでのあらすじを主人公の語り口で説明する作品の存在がある。10月号のストーリーマンガ11作中3作と、数は決して多くないが、語り手の個性がうまく生かされているため説明に現実感が加わり、作品世界との距離を縮めるほか、現在の語り手の意識をはっきり確認できて第三者の説明より状況把握が楽になる。たとえばこんな調子だ。

  「今月号も読んでくれてうれしいな。あっ、おれのえる。そう、最近、未有が援助交
  際しているんじゃないかと心配で、気になってるんだ。(略)もー、まりあのヤツ。
  きのーまで、広部コーチひとすじだったくせに!それに、広部良陽っ!おまえはだい
  たいキザすぎるぞ!な〜にが『本気だよ、つきあう?』だ!その上、バスケはうまい
  しもー、おれこそ本気だ、おこったぞ!ちくしょう、広部良陽、許せ---んっ!!」                 (「りぼん」12月号p69『ミントな僕ら』あらすじ)

こういったものに人物紹介がつくわけだ。これも低年齢読者向けの配慮なのかもしれない。

 その他の特徴としては、「ジャンプ」と同じくアニメ化作品が多いこと(連載終了したが98年1月現在アニメ放映続行中の『ちびまる子ちゃん』をいれれば4作)。現役高校3年生のマンガ家が4コママンガを連載しているなど新人登用に積極的なこと。ほかには「ジャンプ」と同じく読者からの人気に対して厳しいらしく、10月号に始まった新連載が、連載3回目にして12月号で終了している。

 次代のマンガ家を育成するという点では「りぼん」も「なかよし」もずいぶん力をいれている。まんが賞の最高賞金額はどちらも100万円。そして「まんがスクール」という投稿作品の寸評を交えてマンガのかき方を指導するコーナーが毎号5ページ充てられていることでも共通している。「マンガをかく」という行為は新しい発想を具体化するための企画力、決められた枚数内でストーリーを無理なく展開し終わらせるための構成力、そして読者を惹き付ける絵の力とそれの見せ方(構図、陰影、特殊表現、コマの生かし方)が求められる非常に難しい作業である。各雑誌の対象年齢層が生半可な気持ちで挑戦しても決して成功できるものではない。ただし表現手段としてマンガに魅せられ、プロのマンガ家になろうという強固な意思があれば、小さな失敗と成功を繰り返しながら最後にはプロになることもある。それはマンガ読者に一つの新しい生き方を紹介し、選択肢を与えるという点で評価できよう。かりにマンガ家になれずとも、そのために費やした熱意と、自発的な行動の結果である経験が、青年期の人間的成長の肥やしになるはずだ。特に女子学生の就職差別が未だにとりだたされる現在の社会状況では、マンガ家などの完全実力主義の世界を目指す女性は多いようである。「まんがスクール」の内容はマンガを描いてみようという人に非常に親切な書かれ方で、毎号多数の投稿者の名前でにぎわっている。一定水準を満たしていて寸評の対象になっている人の年齢層は、りぼんが14〜26歳、「なかよし」が16〜27歳となっている(対象3号分)。特に「りぼん」は高校生作家が連載をもっていることや、16歳の新人をデビューさせることなどから、積極的に新人を登用していく編集方針がうかがえる。

 その一方で連載が短期で打ち切りになる作品もあるわけだが、ちょうど分析対象の3号で連載が終わってしまった井上多美子の『私がライバル』を詳しくみてみたい。月刊誌連載は2回目の掲載時点ですでに1回目に対する読者の反応が出ている。これは「ふろくファンルーム」で前号の付録に対する読者の感想が掲載されること、連載第2回の作品に読者の投稿イラストのコーナーがすでに出来ていることから明らかだ。『私がライバル』は作者の初めての「りぼん」での連載ということもあり、連載開始号でも巻頭から3番目に位置付けられ、表紙でも小さくかこいで紹介される程度だった。そのために読者の人気を気にしながら最初は様子見という掲載方針だったのだろうが、最初から3回で終わる予定ではなかったことは、そのような記載が全くなかったことと、最終回で問題が全て解決する急展開から察せられる。そこでこの作品がそれほどの読者の支持を集めることができなかったと結論づけ、その理由について作品内容から分析することで現代の少女像の一端を浮かび上がらせる手助けとしたい。

 主人公は中2の女の子で、性格は内気で友達に好きな人の話もできない。同級生のサッカー部の男の子が好きなのだが、ついついきらっているような態度をとってしまう。そこへいきなり告白できてしまうような全く正反対の性格をもつもう一人の自分が鏡の中から現れて恋のライバルになるというお話。設定もストーリー構成も、次号の展開への「ひきつけ」も見事で、十分大人の鑑賞にも耐えうる。ところが「好きな人にひそかに思い焦がれる内気な女の子」という主人公の性格づけが、現代少女の関心を呼ばなかったのではないか。昔の少女マンガにはありがちだったこのパターンが、現在の「りぼん」ではこの作品以外全くみられない 。大体どの主人公も「元気で明るい少女」に設定され、恋に悩むというより恋を楽しんでいる感じだ。「恋に悩む」場合でも一人でうじうじ悩むのではなく他者との人間関係(オーソドックスには三角関係)で悩む場合ばかりである。つまり告白してハッピーエンドとなる少女マンガの定番パターンが、物語の構成上の通過点にすぎなくなり、主人公も物語の展開の早さに合わせて前向きで積極的な性格に変わってきたようだ。2章で「少女マンガは少女のあこがれの投影」と述べたが、だとすれば昔ほど「やさしく」だの「行儀よく」だの「おしとやかに」だのといった規範がいわれなくなった昨今、誰に気がねなく自由に、「明るく元気で積極的な女の子」を夢見てマンガを読むことができるようになったのではないだろうか。そしてそれが「消極的な主人公はおもしろくない」と堂々と表現できるようになったことに表れている。

 ではそれに関連して「りぼん」掲載作品にある程度共通してみられる「前向きにいきよう」というメッセージについて触れておこう。明るく元気な主人公像がほとんどなので、前向きなのはある程度当り前だが、特にそれがテーマとなっているものを少し詳しくみてみる。水沢めぐみの『トウ・シューズ』はバレエマンガで、バレエははじめてまだ2年だが、バレエが大好きでところ構わずいつも踊っているほど練習熱心な女の子が主人公。ドジでバレエスクールでも頻繁に注意されるが、「でもあたし注意されるのって好き!そこをなおせばもっとうまくなれるってことだもん」という非常に前向きな考えをもっている 。そして自分の経験のなさをわかっていても、公演の主役は誰が立候補してもいいと聞いてすぐに立候補を決めるなど、普通なら躊躇するような大きな課題にひるまずに挑戦する。それが結果的に失敗することはあっても、周りの人の支えもあって失敗を成長の糧に変えてまた新しい課題に挑む主人公は、その純粋さ故に感動を呼び、読者は気がつくと主人公を応援し、またそんな生き方に憧れるようになっている。このような物語は、少年マンガでも特にスポーツマンガにはよくみられるし、少女マンガなら大長編の代表作が存在する。「演劇」を扱った美内すずえの『ガラスの仮面』がそれで、主人公の芝居への熱意はしばしば常識はずれの行動に発展するなど非常に衝撃的に描かれる 。

 もう一つ小花美穂の『こどものおもちゃ』を取り上げる。「生き方のテキスト」としては子どもと価値観を共有する面があるだけにより影響力が強いだろう。アニメ化もされた人気作で、単行本売り上げは少女マンガ中1、2を争う 。私は分析対象マンガ92作品のなかでもっとも如実にマンガと子どもたちの関係が反映されたものとしてこの作品に注目したい。そこで既刊単行本全7冊と連載された3回分を参照した上で、少し詳しくこの作品についてふれることにしよう。
 「シリアスとギャグのバランスが絶妙」 と評されるほど一流の娯楽マンガとしての側面をもつ一方、この作品が扱うテーマは重い。芸能界などの非日常的な要素を絡めてあまり現実感を出さないような設定にしているが、次々と展開する事件は「崩壊する家族」をモチーフとしている。しかし、主人公紗南(サナ)の明るさは、常識的には「暗い」問題を、無頓着に明るく解決していく救いとなっている。加えて全編に貫かれている作者の遊び心が尋常のレベルではないことも大きい。作者が単行本第一巻で「マンガ家が描くプロなら読者さんはほとんど読むプロなんですね」とコメントしているように、マンガ文化に慣れた読者がいてはじめて成立する成熟したマンガである。思ったことをズケズケ言う態度と子どもらしいすっとぼけた言い間違いの数々は主人公「紗南」の強烈な個性をかたちづくっており、ここに現代少女マンガに共通するヒロイン像の典型をみることができる(図版1:5巻-p86)。ほかに準主役の羽山や脇役たちの設定と、最初からしっかり話の流れができていたというメインプロットの巧みさは、他の平凡な恋愛マンガより一段高いところにあって、読者との普遍的な心のつながりを確かなものにしている。

 この作品の話の流れについて簡潔にまとめてある単行本のあらすじ紹介を引用しよう。
引用文中に作品中のネームで注を補う。

  倉田紗南は元気な小6の女の子。ただいま人気TV番組「こどものおもちゃ」に出演中。
  (注:このタイトルは「今時の子供」----大人をくった「世間」をおもちゃにしているような子供の姿を
  クローズアップする----というコンセプトからきている)(略)
  そんな紗南の通う6年3組は、メチャクチャに荒れたクラス。ぜんぜん授業にもならない。
  仕切っているのは、羽山秋人。
  面倒なことは避けたい、と思う紗南だったが、怒りが爆発。羽山と対決することに。
  (略)だが、羽山が悪魔のようなヤツになったのは、冷たい家族のせいだった。
  彼を産んだとき母親が死んだことで、姉に”悪魔”と言われ続けているのだ。
  (単行本2巻より)

これが第一の事件である。連載当初の羽山は先生いじめの首謀者で悪魔のような男子(図版2:次ページ上:1巻-p23)。ところが彼は主人公(紗南)と同じ位人気があったと作者は語っている 。これは神戸の児童殺傷事件の中学生に共感する子どもが多かったことと状況が似ていないだろうか。羽山のキャラクターは基本的に周りのもの全てに対する不信感でできている。なかでも大人に対する不信感が強い。そんな羽山の行動は現代の子どもの気持ちを代弁したものと受け取られているのではないか。

 紗南と羽山の2人ははじめのうちは全く考えがすれちがっていてお互いのことを理解できないでいた。それが羽山の家族の問題が解決するとともに次第に2人の心の距離が近づいていくことになる(図版資料3:次ページ下:3巻-p78)。その後羽山の友人剛の両親が離婚するなど、主要キャラクターの性格とその家族との関係が次第に明らかになり、4巻では主人公紗南が本当は捨て子だったことをめぐって、「本当の家族」をめぐっての子供なりの迷いや願いが描かれる。そしてそういった各登場人物の環境や過去の事件をサブ・ストーリーとして描くことで、それぞれの現在の心境や立場がすんなりと理解できるようになっている。

 この作品のテーマは突き詰めれば「他者理解」だと私は思うのだが、ほかにも設定上「他者理解」をすすめる工夫が観察出来る。主人公が芸能人という設定なので、映画やドラマのなかでさまざまな立場の人間を演じ、そこで自分の体験がすなわち他者の体験であることに基づいて、他者に対して新たな発見をする。主要登場人物の回想シーンや、日記やエッセイの形式を借りた内面の吐露も効果的に挿入される。マンガの表現上の可能性を十分に使って物語世界の語り方に成功していると思われる。

 その際この作品が非常に子供の共感を汲むことに成功していると感じるのは、作者が理想ばかり追っているのではなく、率直に「『前向きな気持ち』を持続するのは、ほんとにむずかしーことだな」 と感じた気持ちを、作品の随所に表しているからだろう。単行本一巻に作者の次のようなコメントが載っている。「羽山のひねくれ気味な言い分は、私にかなり近いのですが、私のなかにはやっぱり紗南の部分もちゃんとあるですよ。」「人っていつでも正反対の意見をもってると思うのね。」「勝ち負けの問題でなくて、両方のいいところだけ残してうまく共存してもらいたい(?)と思います。」 こういった作者側の姿勢があるからこそ、このマンガのなかに子どもたちは「居場所」を感じ、共感者を得た安心した気持ちになれるのだ。

 これに関連して「居場所論」を展開してみると、近年教育現場では盛んに「心の教育」ということが言われだしたが、実際にはこの言葉が一人歩きしてしまって何ら現実的解決法に行き着いていない。神戸の少年事件を受けて新聞に寄稿した「まんが評論家」の村上知彦は次のようなことを言っている。

  「心の教育」は、子どもたちの心に届くのか。「正しさ」や「一番」を求めすぎて
  はいないか。もっと、いいかげんさや悪さを、許容してはどうか。それは放任でも規
  制でもなく、ひとりの人間同士として子どもたちとつきあうための、手始めであるように思う。

こういった姿勢が『子どものおもちゃ』をはじめ、少年マンガに多数みられる「不良」の描かれ方や前に触れた『GTO』の「教育」観にみられるが故に、これらのマンガは子どもたちの「居場所」として無理なく機能し、受け入れられたのではないだろうか。


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