第1章 前提となる重要語句の本論における定義の確認

 

 本論文を展開するに際して、
私が「教育」というものを、また「異民族」というものをどのような枠内で捉えているのかを前もって述べておこう。

 現代の日本で単に「教育」といったとき、
それは往々にして学校における、それも教科教育における知識の伝達というごく狭い範囲を意味するようだ。

『広辞苑』第四版によると、「教育」とは
「教え育てること。人を教えて知能をつけること。
人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。」とある。

『日本国語大辞典』(小学館)では
「知識を与え、個人の能力を伸ばすためのいとなみ。
現代では、一定期間、計画的、組織的に行なう学校教育をさす場合が多い」となっている。

しかし私の捉える「教育」の範囲としては、三省堂『辞林21』の定義
「他人に対して、意図的な働きかけを行なうことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。
広義には、人間形成に作用する全ての精神的影響をいう。
その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される」の第2文がそのまま合致する。

つまり子ども(広義には全ての人間)の周りに存在するもの全てが「教育」としての機能をもっていることになる。
「異民族」教育を考える上でも、「学校教育」に限らず、身近なメディアであるTVや雑誌、マンガなども含めた大きな枠内で考え、
そのなかでの提言をすることになる。

特にマンガについては卒論で取り上げたこともあり、
「異民族」教育における可能性を述べることに決してやぶさかではない。

 次に「異民族」についてであるが、日本においてあまり使われないこの言葉は、
国内に限定して考えたとき、ほぼ「外国人」という意味でとってよいだろう。
具体的には
「身体的特徴や日本文化へのなじみのなさなどから、大多数の日本人に『外国人』と認知される者、
および本人が日本人でないことを認め、それを公にしている者」をさす。

なお、本文中「異民族」という語を用いたときは、
「日本人と文化的背景を異にする人々」をさし、
日本文化にとけこんでいる外国人を含まない。

 

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