第2章 日本における「異民族」教育

 

 日本の異民族教育を考える上でどうしても避けてとおれないのが、過去の戦争である。
「大東亜戦争」と称して近隣のアジア各国を巻き込んだ第2次世界大戦は、未だに大きな傷跡を残している。

日本と同じく戦争責任を問われるべきドイツが、戦争への反省を明らかにして公式に謝罪を行ったのに比べて、
日本政府は積極的な戦争への懺悔をしてこなかった。

その点から日本の教育とドイツの教育を対比してみよう。

 

 藤沢法暎『ヒトラーの教科書』にこうある。

ドイツのシュミット前首相は、「日本はアジアの中に友人を持っていない」と語ることが、よくある。
彼は、日本のかつての海外侵略がアジア諸国に何をもたらしたかについて、
戦後日本がほとんど無自覚・無反省であるところに、その原因を見ている。

政府・文部省が、教科書検定を通して、かつてのアジア侵略をヴェールで覆い、
粉飾することに固執し続けてきたのが日本の歴史教科書問題の一番の原因だが、
日本としばしば対比されるドイツの場合、概して言えば、教科書は戦争やファシズムの実態を隠そうとはしていない。
それにドイツの歴史教科書は一般に、多くの写真を掲載し、また史料を豊富に引用して、
生き生きとした歴史像が成り立ちやすいように工夫している。

戦後責任を負うとは、加害者としての過去を直視しつつ、
謝罪・補償・教育を一連のものとして進めることを意味するが、
わが国では、「近代日本はアジア諸国に対し、やってはいけないことをやってきた」という認識が
そもそも政府にも国民にも欠けていたため、そのいずれもが不十分であった。

 

これに補足を加えると、教科書検定で例えば当然教科書で扱われるべき歴史的大事件である「南京大虐殺」の描写をめぐって
論議になることがたびたびあった。

そのような大きな事件でさえおおっぴらに触れると問題化するのであるから、
東南アジアなどの日本軍の駐屯地での日本軍の行いがどうであったかなどの詳細はまして語られることはなかった。

ところが現地の東南アジアで育つ子どもたちは、自国の歴史を学ぶなかでその詳細をきっちり教えられている。
両国民の間で摩擦が生じるのも当然といえよう。「近くて遠い国」韓国との関わり方にしても、
日本の教科書ではせいぜい「伊藤博文を暗殺した民族主義者」として一行程度の記述で済まされている安重根が、
韓国では民族独立運動を代表する愛国者とされている。

 このように、日本の歴史教育のなかでは、空襲を受けたり原爆を落とされたりした「被害者としての日本」ばかり強調され、
「加害者としての日本」としての側面を無視してきたきらいがある。

日本で常識のように語られる戦争体験談が、他国人のどれほどの反感をかっているのか、
カンボジアからタイに脱出し、キャンプ生活の後日本へわたったメアス・トミーの感想文を引用しよう。

この感想文は、日本の高校生がシンガポールの中学教科書を翻訳したさいに、
日本軍のシンガポール侵略をどのように受け止めたかを感想文として書き綴ったもののひとつである。

 

僕は第二次世界大戦について、多くの体験者の話を聞いた。
「その時の日本は、全国民がお国のために働き、男は戦場に、女は軍需用の武器、弾薬、飛行機を作るため工場へ、
そして、お国のために命を落とした若者が大勢いた。また、敵の捕虜とならないために、絶体絶命のときは、自殺をした。
とにかく国のために何でもしたんだ」。
僕はこの話を聞いたとき、心の中は怒りでいっぱいだった。
「何が国のためだ、何が大きい被害を受けたんだ」と腹立たしかった。
まるで自分が、被害者であるかのようであった。

「国のために命を差し上げる」という言葉は、ただ単に敵から自分の国を守るという愛国心以外の何ものでもないのに、
加害者・侵略者である日本が「お国のために命を差し上げる」という言葉を使うのはおかしいのではないかと思った。

 

 過去の戦争の体験談を聞き、その悲惨さから平和への思いを強くすることに何の異論もないし、
確かに国民自体が偏った情報を植え付けられて戦争礼賛を強制された「被害者」であったことも否めないのだが、
同じ戦争体験談を聞いても違う国の人には違った捉え方をされることがあるということは、知っておいていいだろう。
なぜなら、「異民族」共存とは、お互いを知りお互いを思いやることにあるのだから。

 では戦争のことはひとまず置いておいて、日本の教育の結果として外国のことをどのように理解するかを考えてみよう。

シンガポールの教科書を高校生に翻訳させるという前述の試みを行った私立高校社会科教師石渡延男は、
高校生に白紙をわたして世界地図を書かせたことがある。

結果は「日本の周辺が一番よく書けており、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ大陸がそれに続き、
インドの特徴も何とか書けているのだが、東南アジアとなると、曖昧模糊としてさっぱりわからない」ということだった。

彼は、世界史教科書7社18種類のうち、「東南アジアを正当に位置づけたものは、ごくわずかである」と語っている。
こういった正確な国際理解の欠如が、企業の海外進出における公害問題や、日本人の買春観光といった、
他国・他民族を軽視したことからくる社会問題に発展している。

 「異民族が共存するために何が必要か」ということに関して、
「異民族」を正しく知ることが必要であることは推して知るべしだが、
それが現在の日本でうまく行われていないことは、具体的提言に入る前にしっかりと踏まえておかなければなるまい。

 

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