問題3 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
(振り仮名はかっこ書きで記す。標準でない漢字はひらがなで記す。)

 苗(なえ:主人公の女性の名前)は作業中ずっと、文庫帯の両端をゆらゆらさせながら亀岡さ
んに付いて廻り、或いは筵(むしろ)の前にしゃがんでは固唾(かたず)を呑むようにしてその完成を待ってい
たが、亀岡さんが細工の手を使いながら、

「この琴は須磨琴(すまごと)とも、緒琴とも申しましてなあ。云伝えによりますと昔、在原行平様、
これは美男に在(お)わす@業平様の兄上様で御座いますが、そのA行平様が何のお咎(とが)めやら
須磨の浦に流されておられましたそうな
。都人故に都が恋しゅうて恋しゅうて、余りの恋しさに
海辺に出てみますと渚に舟板が流れついておったと申します。行平様はその舟板を
拾って冠の緒を張り、岸辺のあしを切って指に嵌(は)め、かき鳴らしたのがこの琴の始まりで
御座いますそうな。哀れにも美しいいわれで御座いますなあ」(中略)

 一絃琴(いちげんごと)に関する在原行平の伝説は根拠も明らかでないほど遠い昔の事だが、比較的今に
近い確かな話で河内国駒ケ谷金剛輪寺に覚峰(かくほう)阿じゃりと云う僧があり、この覚峰が再興した
一絃琴奏法を弟子の木村晴孝が受け継ぎ、それをまた杉浦とうそんが伝え、とうそんに師事した真
鍋豊平から学んだ門田宇平が土佐に持ち帰ってこの教授所を開いたと云うのが、B享保の頃
から辿って来た一絃琴の主流の道だと云う。

 のちに判った話によると この頃宇平は既に肺を病んでいたせいもあって、苗の目にも
しんともの静かな師匠ではあったが、稽古の合い問には折々門弟を集めてその師の真鍋豊平
の事など語ってくれたりした。板に糸を張ってさまざまに掻き鳴らす楽器は古くから世
界中にあり、おそらく―絃のC楽器もどこかで誰かが弾いていたものに違いなかろうが、
それを須磨琴と呼び、曲を定め、奏法の決まりを作り上げた最大の功労者はこの真鍋豊平
であると宇平は云う。
                                             (宮尾登美子「―絃の琴」)

問1 この文章の作者の他の作品を、次のア〜エから1つ選び、記号で答えなさい。
   ア 「門」     イ 「雁」    ウ 「蔵」     エ 「俄」


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