言語指導のあり方について
(佛教大学での国語科概論レポートを再編集したもの)

2001/5/12 にかとま

 言語指導というのは、言語で表現したり、言語を通して理解したりする力量を形成することであるが、私たちが普段社会生活を営むうえで、これほど基礎的なものはない。人間同士が通じ合うのは、話し言葉にしろ書き言葉にしろ言語を通してであるし、物事を認識することですら、言語を通してである。言語を使わずに生きていくことは、不可能であるといっていい。それほどまでに基礎的な言語能力が、現代の子どもたちの中では少々おかしいことになっている。

「ガラスが割れました」と自分の責任を回避するような言い方をする児童の例や、「たねまき」と聞いても体験したことがないのでその様子がまるで想像できない児童の例などが佛教大テキストにて触れられていたが、私が最も危機を感じるのは「バイキン」「シネ」「コロス」といった言葉が日常性をもって使用されていることである。私は過去少しアルバイトで塾の講師をしていたが、実際よく感じた。言葉は、子どもたちにとって相手をやっつけたり、自己を防衛する道具になっている。だからこそ、気の弱い子どもたちは、沈黙してしまう。この構図もよくわかる。私は小学校時代は沈黙する側だった。言葉は刃物である。人を傷つける。人間は言葉で武装している。沈黙は怖い。縮こまっているしかない。そこに孤立した人間の姿が浮かび上がる。

 そうではない、という話をせねばならない。言葉の可能性を、それによってもたらされる救いや楽しみを、知らさねばならない。モノとの対話、ヒトとの対話、自分との対話、そしてイメージとの対話をすることへの意欲を呼び起こさねばならない。すると、ひとりじゃない、という安心感が生まれる。心が癒される。言葉が魔物ではなく味方になる。使い出す。どんどん使い出す。使えば使うほど世界が広がり、物事をトータルで見て考えるようになる。心の広い人間ができる。

 そういった言語指導をこそしていかなければならない。もはや、そのための教育と言ってしまっていいほど、切実な問題である。それを目標において、言語指導のポイントと例を列挙すると以下のようなことが重要だと考える。

1 言葉は仲間を作って増えていくことに気づかせること
人間が生まれて最初に使った言葉は何だろう。
生活に身近な言葉から新しい言葉が生まれ、新しい概念が生まれる。
「かいならす」を「かって、ならす」のように分けて考えるなど、元の語を考えさせる授業。
「なぜ○○というのか」といった発問。

2 気持ちと言葉の関係に気づかせること
悪口を言われてどんな気持ちだった?
誉められてどんな気持ちだった?
そしてそれはなぜ?

3 言葉の論理を判断させること
こう書いてあるが本当に正しいのか。
発言者はつねに真実を言っているのか。
言葉を使わずに説明はできない、言葉を使わずに解釈はできない、頭の中をまるごと正確に言語で表現することはできない、
だから>、想像せねばならないし、内容を疑うこともせねばならない。

4 言葉の使い方を判断させること
「説明するための言葉」だからこそ、スムーズな伝達を助けるための工夫があり、
それが
言葉のきまりになったこと。
適切な言葉の並び順、適切な接続詞の使用について。
言い換えることによるニュアンスの変化。
言葉から使い手の心情まで読み取れること。

5 いろんな表現方法を工夫させること
りんごの絵を見て定義する言葉を考える授業。
作文指導。
全員の推敲で作る全員作文(スローガンとかでもよい)。
テーマを決めて各自一行詩を作る授業等。

6 全体のメッセージやイメージを考えさせること
小説のテーマや感想を分析する。
お話の続きを考える。
文体のリズムに気づく。
繰り返しや強調に注目する。

以上のことは、ぜひ私が教育現場で実践していきたいことである。


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