同和教育を実践していく上で
(佛教大学での同和教育レポートを再編集したもの)

2001/5/12 にかとま
2001/7/24 部分修正

 日本国憲法第11条において、基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として謳われている。いうまでもなく、基本的人権は国民全体に保障されているものであり、いわゆる「差別」によってこれを侵すことは許されない。そのことは教育において、しっかりと教えていかなければいけない課題であり、身近な現象を媒介として子どもたち自身に気づかせていかなければいけない課題である。そういった人権教育の中心的課題として、同和教育、すなわち部落差別の解消に向けての学習を位置付けることができよう。もちろん部落差別が現在もなお残っているなら、社会全体の課題であって学校教育のみの問題ではないわけだが、ここでは学校同和教育に限定して考えることにする。

 それではまずはじめに、これまでの同和教育の反省点を振り返ってみよう。
私の感想としてもそうだし、生徒の感想文などを見ても目立っているのが、「差別はいけない」という表面的理解にとどまって、
「私はしないから大丈夫」
とか、
「そんな当たり前のことはみんなわかっているから部落差別はもう解消されているはず」
といった、楽観主義に陥ってそこで思考が停止していることがあまりにも多いのではないかということだ。このようなレベルでとどまっている人間は、差別を積極的に行うことはないかわりに、積極的に解消に動こうともしないだろう。今後身近に部落差別に遭遇したときに、戸惑いが先行して混乱してしまい、けっきょく周囲の差別意識に負けてしまうか、そうでなければ
「私には関係ない。」ですまそうとする、などの消極的人権侵害(差別を止めようとしないために結果的に差別を認める)を起こす恐れは否めない。

 しかし生徒側の本音をうかがえば、
「すでに部落差別はないのでそのような事態は起こりえない」
とか、
「差別がいけないことはわかっているのだから大きな進歩で、このままいけば部落差別はなくなる」
とする意見が強硬であるかもしれない。
はたしてそうなのか、学校同和教育では、まずここのところを掘り下げて討論させるべきではないかと思う。これを考える資料としては、部落差別の歴史を振り返ることが必要であろう。

 部落差別の歴史について、簡単に代表的事例を挙げて説明するなら次のようになる。古代からの「穢れ」観は、血に関するもの(女性の出産、月経、畜生の死と産など)を不浄とした。従って動物を殺したり動物の皮をはいだりといった仕事を行うものはその役割上不浄のものということになった。このような社会的役割における差別が被差別部落誕生の経緯ではないかと考えられるが、その後の封建社会はこの差別意識を利用し、多数の民衆を支配するための強固な身分制のなかに組み込んでいった。明治時代になって被差別身分の蔑称を廃止し、身分と職業が平民なみに扱われることを宣した解放令以後、制度としての部落差別は解消に向かう。戦後、同和対策事業特別措置法などの行政措置によって被差別部落の児童・生徒の学力向上、住民の収入の上昇が図られ、劣悪な住環境も次第に改められていった。一方、差別意識については次第に目立たなくなったとはいえ、現在においても「結婚」に関する周囲の反対といった形でみることができる。現に私も妹に対する親の意見として聞いたことがあり、残念ながら今なお差別意識は現存すると思わないわけにはいかない。

以上のような歴史的な経緯を見ると、そもそも封建制度はもともとあった差別形態を利用したに過ぎず、差別意識そのものは昔から連綿と続いていると考えられること、制度的に解消が図られて以後、被差別部落と他地域との文化レベルなどの等質化が図られても住民の意識はなかなか改善されないことなどから、積極的に解消に動かなければ部落差別は解消しないと結論付けてもかまわないと思う。すなわち、本当に部落差別の解消を願うなら、同和教育の課題として、いかにして「行動化できるまで人権意識を高めるか」が大きな焦点になる。差別を実際問題として、具体的、客観的、社会的な存在として捉え、そういった確かに存在する差別と戦って解消していくためにどのような行動をとるべきか、差別をなくす具体的な行動が求められているのだ。そのためには、なぜ差別が起こり、なぜ今もその差別が残っているのかという、本質的なことに触れながら、自分自身の問題として生徒たちにしっかりと考えさせることが必要であろう。

差別問題は部落差別以外にも多くあり、女性差別、人種差別、民族差別などと列挙することができるが、同和問題はその中でも最も条件が不確定的な差別である。性や人種や民族、または障害者といった条件は固定的で、当人にとって絶対的かつ不変な属性である。ところが部落差別は一見、住処による差別と捉えられ、条件を紛らわせたり入れ替えたり解消することが容易ではないかと思われやすい。だからこそ、指導方法次第で身近な問題として感じられるようになるし、他の人権問題を考える契機ともなると思う。すなわち、同じ日本人で見た目も話し方も自分と同じ人間をただ住んでいる所が違うというだけで差別してしまうという条件の不合理さ、あいまいさは、例えば
「被差別部落と知らずに引っ越してきた人も差別されるのか」
「どこが被差別部落だとかいう情報が今でも行き交っているのか」

といった素朴な疑問を引き起こすし、結婚や転居といった誰にでも起こりうることを契機に自分も被差別部落に関わっていくかもしれないという厳然たる事実を思い起こさせる。

部落問題というのは非常に繊細な問題で、身近のどこどこが同和地区だということを学習することが差別を煽る危険性というのは当然警戒されてしかるべきだ。しかし、具体的に地区名を挙げられないから生徒が身近な問題として感じないということはないだろう。実際に部落差別には歴史があり、差別解消のために法律ができ、団体ができ、差別事件も起こっている。被差別部落を扱った小説や、映画、匿名の体験談を読むことができ、そこから差別される側の心情に入っていける。そのような資料にあたり、主体的に調べ、差別を科学的に捉えることは情報化が進む今日ではやりやすく、実に有効な学習方法であるといえる。そして、集めてきた資料結果を踏み台にして、被差別民衆の生き方に迫ることは、差別の本質を見据える大きな意味をもつ。現在の子ども達は、総じて損得勘定や利害関係で物事を決めがちになり、自己中心的な考えが強くなっている。同和教育を通じて、他者の心情に寄り添うことができるようになれば、人権教育の第1歩は成功だといえる。部落差別に関する学習は、単に知識として覚えるだけの学習ではない。第2段階としては、「では、部落があるから差別があるのか?」といった問いにもっていくなど、問題を人間に帰結させ、自分達に帰結させることを行わねばならないだろう。同和教育とは、「差別されている人たち(=他人)のことを考える時間」ではなく、「自分たちのことを考える時間」なのである。

以上のことは、特に私が教育現場で留意しておきたいことである。


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