マルチメディアと教育 (佐伯 胖著)太郎次郎社 読書メモ
既存の知識、教育観をゆさぶられた本。
「1.学びとコンピューター」
「2.教育とマルチメディア」
「3.教えることと学ぶこと」の全3章仕立てであるが、
第3章が一番わかりやすくて、身につまされた。
算数の場面における具体例を元に、
ほかの実践者と論を戦わせているので、
「1人の人の意見」を越えて、非常に参考になる意見がうかがえる。
子どもの身になってもう一度、根本的な疑問に立ち返って考えようという気にさせてくれる。
著者の主張が思い切りつまっている、熱い本である。
以下、「第3章 教えることと学ぶこと」から、特に感銘を受けた部分を引用。
(●印以下が引用文。←→以下は私の補足)
(留学先のアメリカの大学院では、学生は)
●授業中、質問したり発言したりするとき、(略)
つねに、「自分ならどうする」ということを考えている。
←→日本の教育は「自分ならどうする」がない権威主義。
●知識はだれもが「ほんとうか」と問いただせるものである。
←→権威によって疑いなく受け入れるものではない。
●うっかりすると「説明がしやすいこと」を「教えやすいこと」と勘違いする。
←→教師は、権威主義・手続き主義によって、効率的に説明することを第一に考えていないか?
小数どうしの掛け算は、どうして答えだけ小数点がずれるのか?
納得できる授業についての論戦。
タイル算は本当に有効か?
掛け算なのにどうして減るのか?
子供の身になってとらえることの必要性。
「自明のこと、当たり前」と「わかっている人」の視点でとらえ、押し付けることは×!
実験によって「そういうことか!」と納得の声があがる。
教師は導くのであって、教えるのではないということがわかる。
×0.1は10等分することなんだ!
「わかる」ようになるための考えのカギ。
1人の「わかった」から、全員の理解へ。→●「やっとナゾが解けたことに満足そう」
◆佐伯 胖氏の提言
数学的思考の発達は、ほんとうに「具体から抽象へ」ということなのか、あらためて問い直す。
●私は、いかなる発達の段階でも、真実性の実感の源泉はつねに「具体」にあり、
「具体に戻る思考」は、高度の数学的思考においても重要であると考えている。
加川博道氏の「タイルを使った実践」に対抗>具体物の略図を書くことで理解させる授業案
●「1つ小数点をずらす」ということは、「全体を10等分した1つぶんを出しておく」ということ。
「1あたり量」というところに混乱があったのだ、という指摘。
◆小寺隆幸氏「『数学する」とはどういうことか」
●「数学を拒否する彼らに僕自身が”人間として生きていくうえで本当に大事なんだ、だからやってみろ”
とどれだけ言えるだろうか」
●子どもたちの”数学は現実からかけ離れた問題を公式を用いて解くことだ”という数学観を揺さぶりながら、
具体的な状況や文脈に即して数学をつくっていくとはどういうことなのか」
マイナスの世界を経験的に理解するには・・・
トランプによる「財産ー借金」ゲーム => ●自然に借金をマイナスで表すようになります。
●数学が生み出された過程を擬似的にであれ体験すること (佐伯氏の反論アリ)
(講演での著者のセリフ)
●数学を勉強するのは度量がでかくなること。
どんなやり方でも数学は許せる世界なんだ、
どんなことだってこだわってみろ、それはいつのまにかすごい数学になる、というのが数学だ。
●子どものどんな発言もていねいに聞き入れ、ほかの発言と同じように堂々と板書して、
みんなに考えさせている。 (※実際にやるのは、授業案にとらわれている教師では難しい)
↓
●だからこそ、最終的に、「どんな計算方法でも、結局、同じことになっている」ということが
真実味をおびて理解された。
↓
●「どんなに多様に考えても、きちんとていねいに考えていけば、みんなつながって川になる」
ということを学んだこと(が最大の成果)
(著者の辛らつな批判)
×「正しい教え方」なるものが存在するという前提にもとづいた見方
×考えることが楽しいことだとか、いろいろ多様な考え方をしてみてもいいんだとかいうことが経験されておらず、
「答え」さえ合えばいい、「解き方」さえおぼえればいい、どうせ「正しい考え方」をおしつけられるんだ、
と思わされる授業が多すぎるのではないか。
×わが国の教材研究やカリキュラム研究は、「知る」という認識活動を、
なんの喜びや感動もない、外界の「教材」操作に対応して一定年齢の全ての子どもの頭の中に
共通に構築されるべき機械的な論理展開のように扱ってきた。
そこでの「学び」には、真実性の実感(納得)、人びととわかちあえる共感、知ることの意義、やりがい、
わかってよかったという喜び、未知の世界へのおののきとあこがれ、
・・・・・・そういうものが考慮される枠組み自体がまるっきり欠落していたのである。
したがって、そのように授業を見る目も、評価する目も失われ、
「どういう教材でどう教えるとわかるはずだ」式の議論が文脈を無視して一方的に展開されてきた。
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