古田足日「アンドロイドアキコ」についての考察

 

(大学のレポートとして書いたものを内容を一部省略して公開します。)

 

 古田足日「月の上のガラスの町」より短編「アンドロイドアキコ」を取り上げ、
マスコミ環境とジェンダーの関係について述べていく。

この作品は93年度の中学2年生用国語教科書(学校図書版)に採用されており、
第5セクション「[総合]真実の表現を探る」のなかで「マスコミとわたしたち」と
セットで扱われている。

なぜこの作品が選ばれたのか、この作品に秘められたメッセージは何かということを、
作中の主人公アンドロイドアキコを中心に考察し、
それをステップに現代の教育問題、社会問題、とりわけ社会のなかの男女関係、
マスコミによってつくられる男女像に関係づけて論を結ぶ。

 

 簡単に作品紹介をしておこう。

「アンドロイドアキコ」は1964年に「ロボットの恋」という題名で
「味の素」のPR雑誌『奥様手帳』に連載された『月の上のガラスの町』の中の一編。
全集のあとがきで作者が述べるところによれば、
「そのときの注文は若い娘さんを読者対象とした童話を書いてほしいとのことだった」らしい。
その後1967年に子どもを読者対象として補筆訂正したものが盛光社から出て、
78年に童心社から新版が出るときには大幅な加筆修正がなされた。
作者は同じくあとがきで
「それまで第3節でおわっていたものに新しく第4節をつけ加えた」と語っている。

後で述べるが、この後から付け加わった第4節が、非常に重要な意味をもってくる。
内容は未来の空想世界を舞台にした小説で、アンドロイドのアキコさんが主人公。
「つくるもの」と「つくられたもの」の関係が全体をとおして観察できるのが大きな特徴だ。

 それでは以下物語に沿って考察を行う。

 

 (第1節)

 アキコは亡くなった娘の代わりに科学者が造ったアンドロイド。
毎年誕生日の前の日に、父親の科学者が、「娘の年にふさわしい体と、心の動きに造り替えて」いる。
しかし本人は自分がアンドロイドとは知らない。このあたりは他のSFロボットものでもよくある設定だ。

アキコは部屋の壁掛けテレビで流れる歌に影響されて、「透き通る愛が待ってる」という
「月の上のガラスの町」に行きたくなる。
アキコは「男と女が愛し合うドラマ」も好きで、この辺は今どきの少女と似通っている。
私はちょうど卒論で現代の少女マンガ雑誌を調べることがあったが、半分以上が純粋な「恋物語」であった。
子どもの周りのメディアが「恋愛」を取り上げるから、恋愛好きになるのか、
もともと少女は恋愛好きだから「恋愛」ものが多くなるのかはわからないが、
とにかくそういう状況である。
ここで父親は「アンドロイドでも、愛し合う相手を欲しがるのか」と驚く。

 

(第2節)

 舞台は地球から月の上のガラスの町に移る。
ここはSFらしく人工の町である。
アキコは強盗にハンドバッグを奪われるが、この事件をきっかけにハルオという青年に会う。
「テレビドラマと同じだわ」とは、青年と手をつないで地球見草の林の中を歩いての感想である。
ここですでにアキコはドラマという既成の世界像で提示された理想を追い求めているだけで、
そのことに何ら疑問をもっていないことに留意したい。
「テレビでは、こういうとき、必ず二人の間に愛が生まれるのでした」という一文が象徴的である。
この「愛」という言葉がいかに曲者かは、おいおいふれていくことになろう。

 

 (第3節)

 ハルオと仲良くなったアキコは「わたし、あなたを愛しているわ。」とささやく。
それに対するハルオの返事がこうである。
「テレビのまねは、いやだよ。アキコさん。愛にはもっと、心がこもっているはずだ。」
これにアキコはショックを受けて、「愛」とか「心がこもる」ということに疑問をもつ。
ハルオによってテレビのまねごとの「愛」が突然拒否されたことで、アキコとともに読者も当惑する。
このやりとりが少々唐突すぎる気もするが、これも読者を驚かせるための手法ととらえれば納得できる。

 この話は短編なので、アキコが「愛」を知るのはすぐである。
ロボット法を破って死んでいくアキコが口にする言葉、「分かったわ。ハルオさん。愛とは心が痛むことなのね」。

 「アキコは満足でした。ハルオの愛をつかんで死んでいくのですから----」。
この語りで第3節は終わっている。
ここで終わっていればこの話は平凡な「愛の賛歌」にすぎなかった。
しかし第4節でそれまでのものの見方が180度転回する。

 

 (第4節)

 アキコの棺に話しかける父親の台詞でできている。
否定、否定、また否定である。
加筆された第4節の、最後に出て来る結論は何か。

 最初の父親の台詞は「短い命だったが、女の一生を力いっぱい生きたんだね」。

 次の台詞で翻す。
「違う!そんなことはない。(略)満足してはいけなかったんだ。
せめてものこと、生きて愛をつかめないことを、悔しがらなければいけなかったんだ!」。

 そこで「そういう女」に生き返らせようとするのだが、
ここで彼はアキコを動かしていた感情を、具体的にセットした覚えがないことに気づく。
セットしたのは「人間の女として育っていく可能性」であった。
その結果アキコは、「花を愛する気持ち」や「愛の相手を欲しがる気持ち」をもったのだ。
「だけど、もう一つの気持ちは生まれなかった。」と父親はつぶやく。

 このとき地の文で読者に対して疑問が投げかけられる。
愛をつかみながら死んでいかなければならないことを悔しがる気持ちが生まれなかったのはなぜかと。

 「分かったよ、アキコ。わたしは、わたしの好みを、その好みが生まれてくるような可能性を、
自分で気がつかないうちに、おまえにセットしたんだよ。」という父親の台詞につづいて、
再び地の文で直接的に作者のメッセージが語られる。

 「思えば、自分の心の中にありながら、自分自身気づかないものは、数限りなくあるのでした」。

 最後に父親は、
「今、おまえを生き返らせても、わたしの中にある、さまざまの、わたしの気づいていない、偏った考えが、
やはりおまえを不幸せにするだろう」と悟って、結局アキコを生き返らせないことを決める。

 「『献身』的な娘の愛」をまず否定し、つくるもの自身が気づかない固定観念を否定し、
その結果「彼女自身の生は彼女にゆだねる」ことがもはやできないと知って、
父親はアキコを生き返らすことをやめるのである。
全集の解説で佐藤宗子は、
「『アンドロイドアキコ』で、意識的に無意識の『枠』をとりあげ、問題にした点は、何といっても注目に値する。」
と述べている。

 4節で科学者が「女とはこういうものだ、という考えによって、お前を造り上げた」と反省しているそのことが、
すなわちジェンダーの問題であろう。
しかしジェンダーの問題に限らず、「愛」という不確かだが身近な言葉一つとってみても、
何気なく知っているそれは「つくられた」ものであることが分かる。
そして人間はそのような周りの情報に浸されることで、
みずからの運命を甘んじて受けるか、または何の疑問もなく生きるように仕向けられているのだ。
科学者がロボットにセットすることと、マスコミや周りの環境が人間にセットすることは共通している。
われわれは完全につくられたロボットでないから、マスコミに流されず生きることも可能だが、
それだけで解決する問題でもないことを、この物語の奥深さは語っている。

それではこの作品を踏まえた私の意見を言っておこう。

 「つくるもの」「つくられるもの」という関係は、およそ現在の社会問題の全てに含まれるものであり、
この関係を理想化することで(それが可能かどうかは別にして)全てが解決へと導かれるに違いない。
教育問題のほとんどは、
子どもに対してつくられる「期待」と現実の子どものギャップがあまりに深いときに起きるものだし、
ジェンダーについても、これは定義からして社会的につくられる性差に基づいた差別や偏見があることに問題がある。
民族問題も同じで、ある「民族」という枠をつくってそれを基準にみるから、
「みられた」側がそれを取り払おうと躍起にならねばならなくなる。

 ところが「つくる」「つくられる」という関係は相互に循環していてどこか一つに責任を固定できるものではないし、
またこの関係をなくすことは少なくとも他者とのコミュニケーションの断絶を意味するがゆえ到底不可能なことである。

しかし自ら気づかずにそれを行うのではなく、気づいた上で行うのであれば、
そこにお互いが理解できる共有スポットが生まれる。
「つくるもの自身が気づかない固定観念」をなくすことはできなくとも、
それを減らすことが、全ての社会問題を解決して、全てが文句なく共存できる社会へのステップだろう。

「アンドロイドアキコ」はそこに気づかせてくれる秀作として評価したいし、
ほかにもより多くの人にそういった側面を考えさせる作品は積極的に評価したいと思う。
そしてなによりこの作品が教科書に載っていたという点で、私としてはその教育的意義をたたえたい。

 

参考文献

『中学校国語2』(学校図書)1993

『全集古田足日子どもの本第6巻』古田足日(童心社)1993

 

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